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from    田村 門百

NPO法人たからばこ監事

前安房特別支援学校PTA会長

​『私が歩んできた福祉の道』

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~仕事として、父親として大切にしてきたこと~

 今回の原稿の依頼を受け、何を書こうか悩んだ結果、自分がいくつかの福祉職場で経験したことや、そのとき強く感じたことを書きたいと思います。そして、その経験から重度の知的障がいのある娘を育てる親として大切にしてきたことをお伝えしたいと思います。

 

1 ホップ~福祉の原点

 初めての職場は、視覚障害のある知的障害者が生活する入所施設でした。

自分は児童福祉を希望していたため、最初は戸惑いの連続でした。利用者の方への声かけの大きさ、手を引いての誘導の仕方、車椅子の操作や食事支援など、初めて学ぶことばかりで、利用者の方の「目」となり、「手」となり、「足」となるにはどうしたらよいか、一人ひとりに寄り添った支援の在り方を考えていく中で、人と向き合うことの難しさを学び福祉に対する考え方が大きく成長しました。

 

2 ステップ~福祉の広がり

 次の職場は、2歳から18歳の児童が生活する児童養護施設でした。児童の入所理由は様々で、それぞれの児童に対して支援方法を構築しなければならず、最善の方法は何かを考え取り組みました。

あの頃は、勤務時間にとらわれず、早朝の野球の練習や、夜の学習会など寝食を共にして児童と一緒に過ごすことに時間をかけた記憶があります。

 保護者、児童相談所、地域の方々との連携はもちろんですが、職員のチームワークは肝要で良好な職員関係があれば、おおきな問題に対してもお互い励ましあうことで、気持ちも前向きになり解決への道がひらけました。このチームワークの良さは、利用者・対象者のための気づきや支援方法の決定など、当事者に寄り添う福祉の職場では何より大切なものと感じています。

 

3 ジャンプ~福祉の現場を守るものとして  

 その後は、障害施設(知的障害児施設・障害者支援施設・グループホーム)と児童養護施設で、現場がより利用者にとって安心できる場となるよう職場環境の充実、職員養成を担う立場として働きました。ここでは次に仕事をする人への配慮を大切にしました。記録をつけやすくするために書式を変更、引き継ぎノートの活用、環境整備(利用者の生活スペース、職員の勤務室等)、事故防止の観点から危険箇所の洗い出し等を推進しました。また、組織の要はホウレンソウ~「報告」、「連絡」、「相談」とよく言われますが、私はそれに「記録」の重要性を加えたいです。さらに、先輩や上司のあり方はオヒタシ~「怒らない」、「否定しない」、「助ける」、「指示する」。さらに、良くない情報ほど早く伝えるなどのスピード感を持つことなどを中心に仕事を進めてきました。

 *福祉職場で働いた36年間を振り返り大切なことは、福祉に対する意欲と自己研鑚、気づきと実行、連携と協力、利用者への寄り添いと微笑みなどが頭にうかびますが、私は、「恕」(孔子のことばによると、つまりは思いやり)という一文字が一番好きです。

 ここまでは、自分の仕事として福祉職場での経験や強く感じたことを紹介させていただきました。ここからはその経験から重度の知的障がいのある娘を育てる親として大切にしてきたことをお伝えしたいと思います。

 

1 健康管理の大切さ

 重度の知的障がいのある娘は、首が座るまで半年~抱きかかえていると首がだらんと下がってしまうので、周りの方から「首が下がって可哀そうよしっかり支えなさい」と、よく言われました。本当はある程度首は座っていて娘が好む姿勢でした。歩き始めたのは2歳~はいはいが長く続き、つかまり立ちや、よろよろと歩いた時は、祖父母や両親は大いに喜びました。話し始めたのは3歳~。2歳を過ぎて「アー」とか「ウー」の強弱の発語で、自分の要求や拒否の意思表示をしていました。そして3歳の時に「マーマ」との言葉が出た時は、嬉しいのと、これから会話できるようになるとの期待がふくらみました。余談ですが今は、とってもとってもびっくりするほどおしゃべりです。

 日々ゆっくりと成長する娘を育てる中で、スモールステップで達成感を味わい喜び、健康観察バイタルチェックや情緒の起伏など小さな変化を見逃さないことを心がけました。

 

2 多くの方々に支えられての成長

 私たち両親が児童と障害の両方の福祉分野の職場を経験する中で、児童相談所の仕組みや、市役所の社会福祉課等を活用できる情報を持っていたことが大きく役立っています。娘が生まれた時は共働き(私は日勤、妻は育児休業後は早番・日勤・遅番・夜勤の変則勤務職場)のため福祉の支援が必要と考え、2歳の時に児童相談所に行き療育手帳の申請し、交付されました。

 支援を受けた機関は、児童相談所・市役所の社会福祉課・相談支援事業所・保育園(最初は公立の保育園でしたが、迎えの時間が19時まで見てくださる民間の保育園に変わりました。また、そこでは娘を支援する方が一名ついてくださいました。感謝です。)・NPO法人・施設・放課後等デイサービスサービスです。NPO法人には居宅介護(身体介護・家事援助)で、朝両親の出勤時から学校のバスへの乗車まで、また、夕方親が帰るまでの支援。日中一時支援(移動支援)で放課後等デイサービスへの迎え。また、千葉こども病院や亀田病院などたくさんの医療機関からも支援を受けました。

 そのため、我が家の勤務表があり、両親(私は土・日の週休、妻は平日の週休)の勤務割と娘の登校時、下校後の過ごす場所と支援者名、通院など予定・・・・と細かいものでした。娘には明日の予定を専用のホワイトボードにて「見える化」して、理解を得る工夫をしました。いま考えるとよくやりくりできたものだと思います。できないこと、わからないこと、助けてほしいことは福祉や医療関係者にとにかく相談しました。そうすることにより、道は拓けました。

 

3 豊かな生活に向けての工夫

 共働きの中で、娘一人だとビデオやタブレット中心になってしまうので、一緒に過ごせる時間は大切にしてきました。娘の楽しみが広がり、主体的に取り組み、自己肯定感が高まるような企画を組み立てました。

 例えば、「我が家の発表会」(歌、寸劇、ダンス、楽器演奏)では準備段階から一緒に取り組み、当日の司会や主役を担ったり、コロナ禍では大好きな外食を控えテイクアウトでの「おうちレストラン」(娘が希望するウェイトレス、母親が盛り付け、父親がお客役等)など、遊びの要素がたっぷりですが、その時の娘は本当に楽しそうで、こちらも嬉しくなります。事業所の通所日に足取りが重い日もありますが、上記のような企画を目標に頑張っている面もあり、これからも継続したいと思います。

 

4 今日までそして明日から 

 娘は令和2年の3月特別支援学校高等部を、本当に多くの方の支援を得て卒業し社会人となりました。進路については、中学部の頃から動いていましたが、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、二転三転し、現在は就労支援B型事業所2施設、生活介護事業所1施設に通っています。

 娘を育てていく中で、両親も成長させてもらいました。娘には「生まれてきてくれてありがとうの」言葉を送りたいです。

 漢和辞典によると「福祉」とは、「福~さいわい、幸福」「祉~さいわい、とまる」とあります。何もせずに幸せが止まっているとは思えません。福祉の制度も変化すると想定できますし、今できないことでも何年か先にはできるようになるかもしれないので、アンテナを高くして情報を得て、娘の自己決定を尊重しつつの支援をこれからも続けたいと思っています。

​(たからレターNo.35.36より)
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