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from  鳥居博明

​ 社会福祉法人薄光会 前理事長

硝子戸の中』

専門職コーナー  鳥居様.jpg

 

                         (序)

 なんだか急に思い立って、本箱の中から埃をかぶった文庫本を娘に探してもらった。夏目漱石の『硝子戸の中』である。東京上野の文省堂書店の包装カバーに「S.47.3.6 ナツメ10」とサインペンで書いてある。今では筆記する能力を失ってしまった私のまぎれもない筆跡で、思いのほか上手い字だ。日付は大学受験で上京した日で、漱石の作物10冊目という意である。

 夜中に読み返してみた。当然ながら、当時読んだ印象とはだいぶ違った感覚を味わった。おぼろな記憶にあったのは、漱石の生い立ちやガラス戸越しの母親の面影の記述だったが、100年前の書き物とは思えない「作中の私」の精神の動きの新鮮さに、あらためて気づかされた。幼い時分の記憶は重い。「育ち」と言い換えてもよいその記憶は、性格や性癖や人となりを手びねりのごとくに塑造してしまう。漱石は自分の芯にあるその塑造を作物に滲ませてやまない。

                      *  *  *

 快活な学童の声が響く夏休み最終週の頃、NPО法人たからばこの武田由美さんから機関紙原稿の執筆依頼があった。法人の代表という立場を降りて2カ月、内館牧子の小説ではないけれど、ありがたく頂戴した相談役という「ご隠居さん」の生活リズムは未だ整えておらず、ある種の気楽さを持て余し気味で、ぐずぐずと原稿に取り掛かれずにいた。「障碍を持つ我が子への深すぎる親の愛に対する辛口の視点もできれば入れてほしい」という武田さんの思いも届いていたが、ハバネロを超える激辛の、勝手な書き様をしかねない自分を畏れ、逡巡した。

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 武田由美さんとの出会いは、うちの相談支援事業所管理者の大森と武田さんとの繋がりからだった。みんなの森開所前の三坂の拠点(旧事務所)で、うちの事務局長と大森ともども茶話会に招待されたとき、私は大いに驚いた。武田さんが私と同じ水戸の出で、中学の後輩にあたることを話の中に見出したからだ。もっとも、私が養護学校から最終学年だけ転校した頃の市立第三中学校は、1学年200名を優に超える生徒が毎日雑巾で磨き上げ黒光りする、どこもかしこもギシギシ音が鳴る木造校舎だった。武田さんが在籍したころには「三中」も近代的な鉄筋コンクリートの建物になっていたはずだから、時代を全く異にする。それでも、たからばこのみなさんの聞き上手とこの奇遇のせいで調子に乗った私は、自分の育ちや来し方を酔っ払いのように滔々としゃべっていた。お茶で酔うわけがない。恥ずかしさをこらえて白状すれば、武田さんたちの広角の視野と波動に共振したのと、「親臭さ」を感じなかったことで心理的防御網が開けっぴろげになって、酔いが回ったに違いなかった。

 

                         (破)

 私の二親が鬼籍に入って久しい。「親臭さ」と私が言うときは、きまって母との関係性においてである。何故なのかを語るには、別の深い淵を覗かねばならない。父との思い出は散らかった引き出しの中なので、いまは母の面影を追うことにしよう。

 漠として輪郭を結ばない記憶の中に、白い正方形の窓枠が連続してまあるく周回する温室のような建物と廊下が浮かびあがる。中央の中庭にヤシの木に似た植物が植えてある。母に抱っこされた私は、怯えの中にいた。日赤病院の待合空間である。電気治療を受けに通う私は、おそらく3歳を越えたころだろうか。背中と腕と脚を硬い束子か剣山で引っかかれるような苦痛の記憶がこびりついていく。当時の、脳性麻痺のおそらく最新の治療に母は望みを託した。家は貧しかった。治療費をどうやって捻出したのだろうか。この治療がいつまで続いたのかは分からない。年に一度くらいの息抜きだろう、通院の帰りに私を抱いた母は、映画を観た。この時は父も姉も一緒だったらしいが、映画館から出ようとしたとき、荷物を盗られたことに気づいた。なけなしのお金が消えた。後年、母から聞いた話である。

 日赤病院は、母の医者巡りの一つに過ぎない。我が子の様子に違和感を持った世の母親は、3、4カ所以上の医療機関を経巡り歩く。違和感の正体を掴もうとする必死さと、医師に食って掛かる気丈さ。言い知れぬ不安と予感を追い払おうとする狂気を帯びたオーラ。ここには常人を寄せ付けない何ものかがある。

「うーむ。深すぎる愛情だって?」 そんな日常語では表しきれない母親の、「剣ヶ峰」の実存性は、男親は及ぶべくもないであろう。子の芯にある塑造も、母親の芯にある練り直された塑造も、その後の抗し難い歳月の作用を受けていき、両者の引力作用も変化していく。まぎれもなく私の育ちもここから始まった。

 

 私自身、息子、娘にとって良き親であるとは、とんと思えない。親子関係だの引力作用だの「親臭さ」だのと、大上段に構えてしまったが、偉そうなことを言う資格はない。けれども、仕事柄、いろいろな親子に接する機会があり、そこに自分自身と母との関係性をついつい重ねてしまうことがしばしばである。懐かしさや微笑ましさだけでなく、ときに特有の「歪さ」を見出してしまう。すると、とても苦しくなってくる自分がいる。正体をつっつきたくなる。だからしかたがない、感じたままを語ろうと思う。

 ひとつ触れておきたい。時代性もある。親の育ちや性格もある。子の抱えた困難さの具合もあろう。状況は多様だ。だが、確実に大事なものが埋もれているはずだ。先に、母親の「剣ヶ峰」の実存性と言った。ひとりの女性がそれまでの人生を屈曲させ、本能と世間の見えざる圧の下、ぎりぎりの極限状態で「いのち」と向き合うさま、という意味だ。母という名の一つひとつの本性を知らねば、前に進めないとも思っている。

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 また、しゃっちょこばってしまった。草葉の陰で母が、「お前がなにを言うか」と哂っているに違いない。

 戦前、母は「よいとこのお嬢さん」だった。東京市庁舎に個室を持った父親に会いに行った話やら、13絃のお箏を買い与えられていた話やらをしてくれた。周囲から可愛がられ、何不自由なく育ったと言う。その後に境遇が二度ひっくり返る。一度目は、日本の敗戦、二度目は8年後の私の誕生である。後年、桐生の疎開先から水戸近郊の常澄村に一家が帰郷した当時の話を時折してくれた。それは、母の女学校時代の青春の一時期を直に知ることができる機会でもあった。けれども、私が生まれてからの心の内を母はあまり語ったことがない。近所づきあいは社交的であろうとした。折り込み広告の内職をし、自転車の荷台に私を乗せて小学校に通い、私が肢体不自由児施設に入所した後は、足繁く会いに来た。見た目とは違って「肝っ玉母さん」ではなかったが、いま思えば、私を前向きな強さを持つ人間に育てようとしていたと思う。

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 私という人間は、母方の祖父の理屈っぽい性分と、母の心配性と父の短気なくせに気が弱い性格とで造り出されている。人間は矛盾的統一体だなどと嘯いているが、要するに面倒くさい人間である。母は、そんな私の性格を一度だけ大声で詰ったことがあった。

「ぐずぐずと理屈ばかり言って、どうしてお前は、明るく爽やかじゃないの! 竹のようになりなさい」

母の詰りは図星で、掛け値なく将来を射抜いていた。私のこれからをやきもきしていたのに違いない。

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 だが、話はそう単純ではないのだった。私は私で、自分を覆う障壁を感じて内向きに立ち往生していたのである。母親というものがふつうに持つ「すご技」が苦しかったのだ。幼い頃からずっと苦しかった。私の僅かな目の動きや四肢の動作で母はすべてをキャッチした。「おしっこなら早く行きなさい」 西部劇のガンマンよりも抜くのが速い。かわそうとして嘘を装えば、すぐ見抜かれた。一挙手一投足にセンサーが張られているように感じられた。苦しかった。やがて、母の顔を伺う自分に気づく。楽になるために母がいない状況を欲した。が、いなくても母の反応を感じた。母は、この苦しさを気づいていたのだろうか。わからない。

 あるとき、「友達んちの海の家でアルバイトしたい」と私は勇気を奮って言った。母は答えに躊躇した。間近になって、いつもする否定形での確かめを母はした。「行かないんでしょ?」 たぶん、「やめとけば」が8分、「やってみたら?」が2分。母の心の揺れを考えることもできずに、私の中で何かがはじけた。ずいぶん後に、東京の下宿から大学に通うようになった私は、水戸にめったに帰らなくなった。「親は最大の障壁」。自分の「育ち」の腑分け作業に私は囚われていった。同時に母の心の内に向き合うチャンスを失った。

 

                           (急)

 「育ちを腑分けして、母親に背を向けて、それで、どうなった? 背中を押してくれなかったから社会経験が乏しかったって? 狭い世界の外側が怖かったって? 自主性が育たなかったって? 伏せたコップの中をぐるぐる回って出口を探したって? それ、みんな母親のせいなんかい? それで出口を見つけて楽になったかい?」 物心つく頃から傍らにいるKがまくしたてる。Kは嫌味なやつだ。「母親とVSになったって、不毛の極み。母親に何の罪がある?」Kは鋭い。チクりと刺された。

 そうなのだ。私が豊岡光生園に職を得たとき、女性職員の声かけに反発して毎度荒れる利用者がいた。その母親に会ったとき、整理できない感情に陥った。その母親が心配そうに気ぜわしく、のべつ声をかけているのを見て、(同じだ。20余年の本人の不自由さ、苦しさの訴えだ……)そう思ったが、それを声高に当の母親に突き付けたって、何の解決にもならない。行き詰るばかりだ。Kがニヒルに笑った。「やっとわかったかい。自覚せずに、多かれ少なかれみんなやってるぜ。パターナリズムってやつさ。言わずにおれない。守ってあげたくなる。行き過ぎて指図のようになる。人間の本性かもしれないな。あんただって、やってるぜ」 Kに反論できない。「親は最大の障壁」から自己分析を始めて、しだいに不毛さに気づき、年を経るごとにもっと重要なことに気づき出したのだ。確かに、親はときに障壁になるけれど、やっぱり最大の支え手なのだ。いや、もっとだ。重症心の母親は、それこそ命をはっている。その厳しさを受け止め、止揚できるのか。

                        *  *  *

 「母親が、自分の人生を十分に生きていると実感するために、俺たちは何をすべきか」とKは話を変えた。「そういう視点で切り込むべきじゃないのかな。おのずと子の苦しさも浮き彫りになると思うよ。そうして、それぞれの可能性に着目して、あたらしい親と子の関係性を目指す。行きつくところ、そこに障碍云々関係なしの普遍的な道筋があるんじゃないか。重症心の親たちが我が子の性格を我が子の目線でさらりと語ったら、あんた、嬉しいんだよな。認知症の親の行為を懐かしい道のりとともに微笑んで話せたり、うつの連れ合いをやわらかな笑いの空気で抱きとめる話、嬉しいんだろう。いまさらだけど、あんたが持てる力と感性で何をするかだな」と、ご高説をのたまわって、Kは付け加えた。「あ、そうそう。『理屈ばかり言って、どうしてお前は、明るく爽やかじゃないの!』そう言ったあんたの母親の言葉から始めたらよかっぺ」グサリと私の脇腹を突いたKは、消えた。

 私は、一つの情景を思う。戦後に急ごしらえされた長屋のような、軒を連ねて建ち並ぶ6畳と3畳と土間のある家。どういう日だったのだろう、母は、歩行がしっかりしてきた私と、6畳間のぐるり5畳を運動場に見立てて駆けっこをした。体を寄せ合いながら何度も回った。私ははしゃぎ、母が笑う、母の笑いは心地よかった。そのまんまがそのまんまに弾けた笑い。とても懐かしく、いとおしい。

 

 いまさらに 植えし ちいさき梅の苗  令和の大気に 身をさらし 咲け

 

駄作だが、いまの私の気分である。                         (了)

​            (たからletterNo.27、28より)

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